風音の谷の土夢創舎  きまぐれカフェの夢物語(キット制作奮闘記)

第1話 約束の場所で


作/ 矢野 宏和(ウインドファーム・スタッフ)
「ここがゆたかな谷になる」

木々の緑がぎっしり詰まった谷への道を歩くとき、そんな言葉が降ってくる、と、カオリさんは言う。
それは、静かな散歩道。これから楽しく、にぎやかになっていく様が、ふつふつと胸のなかに沸き上がってくる。また一歩、踏みしめるごとに、気持∧ちが高揚していく。
やがて、視界に、家が現れる。道脇にあるプレハブの家。ぼく達の住処。
初めてこの家を訪れたとき、まるで押し寄せる高波のように、裏山の斜面から枝葉が迫っていて、南側の窓をほとんど覆っていた。だから、家の中は薄暗く、土砂降りの雨音のような蝉時雨がさらに雰囲気を暗くした。
「本当にここに住むの?」と母は聞いてきた。その隣で「うーん」と唸る父。家のまわりを∧つぶさに見回っては、「蛇が出そうよ」とか「ムカデもきっといるよ」と母は否定的要因を探し出してくる。それを聞いて再び父が唸る。
「大体、あんただけならともかく・・・」と言って、母はカオリさんのお腹を見つめる。そこには、8ヶ月後の目覚めを控えた胎児が眠っていた。
「あんたはいいのよ、あんたはどうなっても」と母は、むくれ面のぼくを無視して、カオリさんの方を見た。 そして、「本当にここで、いいの?」哀願するように語りかけるが、カオリさんが静かに微笑むものだから、母も返す言葉がない。
「でも、これからお母さんになるのに」という母の心配する気持ちはぼくにも理解できた。果たして、草木に覆われたこのプレハブの家で、子育てができるのだろうか。買い物にいくにしても、近所のスーパーまでは歩いて三〇分以上かかる。カオリさんに車の免許はなく、愛用の自転車も、もうすぐ乗れなくなるはずだ。
「出産してから移っても」と、ある日ぼくはカオリさんに相談したこともある。
だが、普段の会話では聞き役にまわることが多いカオリさんにしてはめずらしく、この時は断定的な言葉を使い明確な意思表示をした。「産んだ後にしたら、あの谷に移るのは、ずっと先のことになるよ。きちんと引っ越してから産みたい」
この意思表示がなければきっと、ぼくは何も決断できず、さっきからそこで唸っている父と一緒にうんうんと苦しんでいただろう。初めての出産ということで、産む前のことも後のこともぼくには全然見当がつかなかったが、カオリさんの希望が明確だったおかげで、ぼくは「もう決めたことだから。」と開き直ることができた。
だが、父と母はなかなか納得しない。
「大体、なんでここに引っ越さなければいけないのよ。」言葉にこそださないものの、明らかに母と父はそう思っていた。
「なんで、ここなのか」
その問いに答えるためには、ここに至るまでの成り行きを辿り、さらに、この先の夢を語らなければならない。それは、ぼくたちにとって決して苦痛ではなく、むしろ楽しいことだった。
ある日の食卓で、「もし、神様がお願い事を叶えてくれるのなら」という話題のなかで、「土地が欲しい」と言ったのは、ぼくだった。
「土地って、具体的にはどんなところなの?」と聞くカオリさんに、ビールの入った陶器の器を置いて、ぼくは語り始めた。それは、「夢」というよりかは、どちらかというと企画会議での発言のようなものになった。
「まず、会社に通える所にないと厳しい。三〇分ぐらいのところにないと」と、はじめは地理的な条件から押さえていく。現在、ぼくは有機栽培のコーヒーを販売する会社に勤めていて、その魅力的な仕事は譲れない。
「で、そこで自給自足的な生活空間の創設するのだな。家のまわりを畑が取り囲む生活空間。ぼくは、出勤前や休日に畑仕事をする」
その構想は、以前から話していたことで、実際にぼくたちは車で三〇分ほどの所に畑を借りて、休日や仕事の帰りに耕していた。
改めて土地が欲しいと言ったのは、車で三〇分かかるということに、不快感を感じるようになっていたからだ。やはり畑は、ドアを開ければそこにあって欲しい。窓から手を伸ばしてミニトマトをほおばる。ぼくのイメージでは、そうでなければならなくなっていた。
「さらにだね」とぼくは新しいビールの栓を抜きつつ、「そこは、いろいろな人が集まって、ゆったりと過ごせるような空間にしたいんよ。まあ、文化的なくつろぎ空間だね」と構想を展開させるが、この部分は明らかにカオリさんの夢が色濃く反映されていた。
「魅力的なあの人とこの人を引き合わせたらどうなるか、そんなことを想像するのが好き」というカオリさんは、いつしか新たな出会いの場を演出するような空間を作りたいと望むようになっていた。 
畑に囲まれた空間で、いろいろな人がくつろぎ語り、そこから新たな創造が生まれる。そのイメージに現実味を与えようとしたとき、まず思いつくのが日々の仕事のなかで接している有機無農薬のコーヒーだった。
つまり、カフェ。豊かな自然、花と野菜に囲まれたカフェ。と、想いを馳せたとき、背筋の辺りがぶるぶるっと震えた。
それは、ぼくにとっての吉兆だった。何らかの夢を描いているときに、こうした身体の反応がある場合はかなりいいところまで事が進むのだ。
「ああ、叶っちゃうかも」とは、その場で口には出せなかったが、その代わり「土地を探すことにする」とぼくは宣言した。
それからは、否応なく「売り地」や「貸し地」の看板が目に入るようになる。カオリさんも自転車で走りながら、土地を探した。
だが、看板がでている土地は当然、すべて宅地。一度、問い合わせの電話のなかで「自給自足的なことをしてみたい」と言ったら「は・・・へ?」と担当の人は言葉を飲み、その沈黙がぼくには辛かった。
貸し地も結局、事業を営むことを前提にしているところが多く、「一ヶ月で五〇万円」という料金には一瞬、目の前が暗くなりかけた。
「土地って高いんだね」それが、土地に対してあまりに無知なぼくが得た結論だった。どう考えても、借金しなければならないというのなら、借金アレルギーのぼくは土地探しを諦めるしかない。
「地球はこんなに広いのに」と嘆くぼくとは違い、カオリさんは「まあ、実際に引っ越すまでに三年ぐらいかかるんじゃない」とゆったりと構え、探し物がみつかるまでのプロセスを楽しんでいるようだった。まるで、不思議な幸運が訪れるのわくわくしながら待っているかのように。
ゆったりと待つ。探しものをするときは、そんな心持ちが最適らしい。ぼくの「土地探し」宣言から三ヶ月後、カオリさんはあっさりと探し物を見つけてきてしまう。
その日、カオリさんは一人電車に揺られ、ある工芸展を訪れた。そこにはモリノフさんという木工職人と、染色と織りを営む和香さんがいた。二人ともそれぞれ色彩豊かな庭園と森に囲まれた工房を持ち、しかもお互いに歩いて数百歩のところに住んでいた。
かつて、この二人が主宰する工芸展で、カオリさんはコーヒーサービスの仕事をしたことがあり、何か一緒にできないかなという予感のような希望をカオリさんは抱いていた。例えば、二人が工房を営む場所で、喫茶スペースなど作れたら・・・。
しかし、ぼくたちが住んでいるところから、その場所までは、車で一時間ほどかかる距離だった。だから「もっと近くに住んでいたらいいのに」というカオリさんの希望は、「土地が欲しい」というぼくの願いと同様に遠い先の夢という趣があった。
叶いそうにない二つの夢。だが、朧気なイメージも二つ重なると、不思議な力が作用して鮮明になるらしい。刷り重ねながら仕上げられていく版画のように。
「実は今、土地を探していて」というカオリさんの一言と、「だったら、和香さんの家の前の土地は、どう?」というモリノフさんの提案により、夢は現実へと急速に歩み寄る。
それから一ヶ月の間に、カオリさんのお腹には新しい命が宿り、モリノフさんと和香さんは、ぼくたちがその土地に住めるようにするために、幾度も役場に足を運んでくれ、そのおかげで町が管理するおよそ二〇〇坪の土地を借りれることになった。
そして、今、その契約のための保証人になってもらうべく、ぼくの父と母がそこにいる。だから、どんなに反対されようと、引き下がるわけにはいかなった。今回の土地探しにおいて、ほとんど何も貢献できなかったぼくにとって、せめてこの場面だけでもイイカッコしなければ・・・。
「もう決めたことだから。保証人になってくれないんなら、他の人に頼むからいいよ」とぼくは二人を突き放すように言った。
「そんな言い方しなくても」と嘆く母に、ぼくはさらに言い切った。「今はこんな鬱蒼とした感じだけど、いろいろ手をいれれば、すてきな空間になるんだよ。それがおもしろいんじゃないか。完全に整備されたところに住んだってつまんないよ」
そうして、しぶしぶ、父と母は保証人になることを了解した。が、帰り際、母は「お母さんは反対だからね」という捨てぜりふを、父は「うーん」とうなり声を残していった。
後で聞いた話では、父はその晩もうんうんとうなり続け、心配で夜も寝られず、挙げ句の果てに持病の痛風が再発してしまったらしい。それを聞いたときには、さすがにぼくも反省した。
見送った後、「きっと分かってくれるよ。今度、お父さんとお母さんに手紙をかく」とカオリさんが言う。
頷きながら、ぼくは家の周りを見渡した。父と母が心配する気持ちも分かる。
数年間、だれも住んでいなかったプレハブの家には人の気が通っていない。周囲の土地も草だらけで地面がどんな地形なのかも判別できない。野菜を植えるなど二の次三の次だろう。
さらに、窓を突き破らんばかりに伸びてくる裏山の枝葉。裏山と家屋の間にはちょっとした畑を作るだけのスペースがあるはずなのに、緑に埋もれて家の端々まで通り抜けることすらできない。
だが、すべてはここから始まるのだ。
家の真向かいには、和香さんが営むアトリエ・ギャラリー「花こみち」。さらにその向こうの丘には、モリノフさんの工房「杜の舟」。そのファンタスティックな雰囲気に添えるような空間を作らねば。
すてきな隣人たちとの村作り。ムーミン谷のような物語がたくさん秘められた宝箱。とびっきり美味しいコーヒーを飲みながら、夢と夢とを重ねる舞台。ぼくたちの夢が叶う約束の場所。
谷を吹き抜ける風が、草木の緑の壁を揺らした。と、その隙間から光りがこぼれ落ちてくる。しゃらしゃらと揺れる金色の鈴のように。
その光の源に誘われるように、ぼくは斜面を這い、樹に巻き付いている蔦を引っ張り、鉈を振り落とす。
緑に覆われたキャンパスに、小さなカフェのイメージを描き、空から降ってくるような、はてまた大地から湧いてくるようなその心地良いフレーズを繰り返しながら。

ここがゆたかな谷になる。
   あかるくゆたかな谷になる。

第2話 出産傍観記

文化的くつろぎ空間としてのカフェを創ろうと、僕たち夫婦は、風音の谷に移り住んだ。草刈りや山仕事に追われ、それでもそんな自然のなかでの生活を楽しんでいたある日、、新しい仲間ががやって来た。

風音の谷で迎える初めての春。ウグイスの声が爽やかに響き渡る朝、頬を指でそっとつつかれて、僕は目を覚ました。「今日、来るみたい。今、お印があった」とカオリさんが言う。
言葉を理解するまで、寝ぼけ眼で一呼吸。次の瞬間、僕は「おお」と叫びながら、ベットの上でピョンピョン飛び跳ねた。「痛くない?苦しくない?」と、にわかに落ち着きをなくし、狭い家のなかをおろおろと徘徊するぼくを、「まだ大丈夫、おしるしがあっただけだから」とカオリさんが諭す。
妊娠してから七ヶ月過ぎた頃だったろうか。ぼくはある不安にかられた。カオリさんが通う助産院までは、ここから車で一時間以上かかる。出産は唐突にやって来ると思いこんでいた僕は、いざ生まれるとなったときに、誰もそばにいなかったらまずいと思い、出産前の二週間ぐらいは仕事を休んだ方がいいかなと本気で考えていたのだった。
が、その考えを伝えると、半ばあきれた表情を浮かべながら「あのね、おしるしっていってね、生まれる前には、出血があって、それを合図に赤ちゃんは産まれてくるものなの」とカオリさんは言う。その日のうちに陣痛が始まるから、それから対処しても間に合う、というのである。
「そんなもんなのか。自然の仕組みとは、よくできたものだね」と関心したものの、不安は残った。日中、一人にしといて大丈夫だろうか。携帯電話を買おうかとも考えたが、「どうせまたすぐなくすでしょ」と一蹴された。
「ベストな時に自然に訪れる」そんな確信をカオリさんは持っていたようだ。すでに体内において、母と子の信頼関係は形成されていくものなのだ。
そんな思惑通り、一日の始まりともに、その子は「これから行くよ」とサインを送ってきた。急速に増加する心拍数を押さえながら、僕はまず、会社に電話し、「お印があったみたいなので、今日は休みます」と伝えた。
受話器を置いてから、僕はようやく出産に立ち会うことを決意できた。以前から「自分のことで手一杯だから」とカオリさんは、僕が立ち会うことに気が進まないようだった。昔から、まわりの影響を受けやすかった僕は、例えば遠足のバスのなかで、誰かが吐いたりすると、必ず一緒になって吐いていた。幸いにして、カオリさんの悪阻はそれほどひどくなかったからよかったものの、もしそうでなかったら、一緒にマタニティーブルーになっていたのは確実である。「生涯で最大になるであろう痛みに苦しむ自分を目前にして、この人は平常な状態でいられるだろうか。」カオリさんがそんな不安を抱くのも当然だった。
「一緒にいて欲しい」と言ってくれるもんだと思っていた僕にとって、それはかなり情けないことだった。でも指摘される通り、立ち会って気絶でもしてしまったら、大切な出産の邪魔になる。どうしたものかと、迷っていたが、会社に「休む」と連絡したことで「ともに苦しみを分かち合い、大切な出会いの瞬間を迎えよう」と決意することができたのだった。後になって、その決意が、いかに自己満足的で希薄なものだったかを痛感することになるのだが・・・。
衣類など、取り急ぎ必要なものを準備して、家を出たとき、さーっと吹き上げる風とともに、木工職人のモリノフさんが通りかかった。常々、感じていたことなのだが、モリノフさんは、実に「間のいい」人である。丁度いい時に、ふと訪れるということが多く、僕が大工仕事などしているときも風のように現れ、絶妙なアドバイスを授けてくれる。風音の谷に移り住むようになったときも、モリノフさんのそんな「間のよさ」に導かれた部分が大きい。ほんの一言、二言、言葉を交わすだけで、ゆったりとした気持ちにさせてくれる人で、「どうも、今日生まれるみたいです」「そう、じゃあ、しっかりね」と話しただけで、気持ちが楽になった。
また、目の前のギャラリー「花こみち」の和香さんに「これから行ってきます」と報告に行ったときは、まるで母親のような眼差しで見送ってくれた。待ってくれている人がいるということは心強い。おかげで、僕たちは安らかな心持ちで出発することができた。
車のなかで、時々「うっ」とカオリさんが顔をしかめる。「う、産まれそうか?」とおののく僕に、笑いながら「まだ、まだよ。少しずつ、この痛みの間隔が短くなっていくの」と説明してくれる。が、何となく落ち着かず、「帰り道は三人だね、はっはっは」と言って僕は気持ちを紛らわした。
カオリさんの実家でしばらく待機し、その間に破水。午後二時頃、助産院に向かった。そこには、「はつ先生」という小柄な助産婦が待っていてくれた。
高校生の頃に母親を亡くしているカオリさんにとって、はつ先生はもう一人の母親のような存在だった。二、三度、ぼくは通院の際に先生のお話を聞くことがあったが、それはいのちの深淵に達するような奥深い内容で、カオリさんは必ずといっていいほど、その言葉に触れて涙を流すのだった。
やがて陣痛が激しくなる。これまでぼくが聞いたことのない音域の声が、尋常な痛みでないことを物語る。が、男にその苦しみは想像できない。「鼻の穴からトマトが出てくるようなもんらしい」とカオリさんはその様を比喩してくれたことがあるけれど、それを聞いても僕は鼻がムズムズしただけだった。
力む間隔がだんだん短くなり、痛みもどんどん強くなってきているようだ。
こんなとき、夫はどんな言葉をかけてあげたらいいのだろう?「大丈夫か?」と言ったところで、どう見たって大丈夫じゃないのは明らかだし、「痛い?」などと聞いた日には「当たり前でしょ」と頭を叩かれそうな気がして黙って腕をさすっていた。少しでもその痛みが僕に移ってくれればと、思いたいけど思えない。もし何らかの術でその痛みが僕に乗り移ってきたのなら、きっとその瞬間、気を失うであろう。 
寄せては返す波のように、その子は産道をいったり来たり。この世界に来ることを迷っているふうにも見えるその動きにはしかし、これから生まれてこようとするそのやる気満々の強烈な意志が秘められているようだった。
まだ顔も見えない我が子のエネルギーに触れて、「こっちにおいで待ってるよ」と、心のなかで語りかけた。
黒い髪に覆われた小さな頭が、少しずつ現れては、また戻る。力むごとに、頭が外に出る容積は増えていく。
がんばれ、もう少し」何度、そう念じただろう。頭が冴えているのか、ぼんやりしているの分からない状態で、ぼくは二人を見守った。
そして、ついにその子が出てきたきたときには、ただ立ちすくむだけだった。その後に流れでてきた胎盤にまず怯え、それから、産声が上がるまで、ほんの数秒か。ことさらに、それがとても長く感じた。
午後四時一六分。少ししゃがれた感じの産声が鳴り響く。僕は呆然とその子を見つめ続けた。頭のなかは、「うまれた」という単語が駆けめぐり、誰が言ったのか「男の子だね」という声も、どこか遠くからの声のように感じた。
カオリさんの胸に抱かれ、乳首に吸い付く彼。母は子を、子は母をごく自然に認識する。それは、出産という大きな仕事をやり遂げた二人だけに許された感動の対面だった。
同時にそれは、母子という関係を築いていくうえで、一番大切な時間だという。その場においては、母子以外の存在ははすべて邪魔になる。夫であり、今、父となった僕も例外ではなかった。その辺、はつ先生はとても厳格である。
出産が終わり、一五分ほど過ぎた頃だろうか。「はい、お父さんはここまで。はやく家に帰りなさい」と宣告される。
僕は、もっとその場にいたかった。生まれてきた我が子を、どう認識していいのか、自分でも分からず、父としての証を探そうとしていた。壮絶な出産の後の、母子の神秘的なまでに清らかな情景を目の当たりにして焦っていたのかもしれない。
それでも、心の片隅では分かっていた。何もないのだ。父親がその場でできることなど。はつ先生は、それを熟知されており、だからこう言う。「お父さんは、外での仕事をがんばって」と。もし、出産した時刻が昼頃だったら、僕は速攻で職場に追いやられたことだろう。
かえってその方が、僕には幸運だったかもしれない。なぜなら僕はそれから、空腹を抱えて家に帰り、一人で過ごさなければならなかったから。
誰もいない家に帰ることなど、風音の谷に移ってから初めてのことだった。二人が退院するまでの二週間、それが続いた。二部屋しかないプレハブの家が、とても広く暗く感じる。また、出勤する際、バックミラーに映る我が家の、何と頼りないこと。主を失った家とは、哀れなものだなと、僕が寂しがっていたその頃、我が家の主であるカオリさんは、母としての最初の試練に臨んでいた。
最初の出産では珍しいことではないのだが、母乳が出なかったのである。
今の世の中、母乳が出なければ粉ミルクがある。その方が母子にとって明らかに楽だ。子どもは労なく栄養を補給でき、よく眠る。
しかし、母乳で育てたい願うカオリさんは安易に妥協できない。試練はそこから始まる。
母乳を飲めなければ、子どもはひもじくて泣く。母にとっては、それがまず、つらい。お腹が空いて眠れないからさらに泣く。空腹を訴える泣き声は、母親の身体中にびんびん響く。それが辛くて母も泣く。そうして二人とも眠れない夜が続くのだ。隣のベットのお母さんに「もらい乳」を頂こうとしても、乳首の形が違うためか、母である自分を尊重してくれているのか、意地らしくも飲もうとしない。限りなく愛おしいがゆえに、募る切なさと溢れる涙。カオリさんは母であることを問われ続けた。
精神的にかなり追いつめられていたのだろう。その頃の日記にこんな自問自答が記してある。「もらい乳に情けない想いで切なくて泣いた。でも母のエゴに陥ってはいけない。今、この子にとって一番必要なものは何か?それは母乳に他ならず。母乳を与えられなければ母とは呼べないのか?否、母乳を与えられなくても愛情を与えることはできる。」
そんな状況にあって、必要なのは、今回も僕ではなく、はつ先生だった。
はつ先生によれば、その頃、カオリさんは、母乳がでないことで思い悩み、そのことで「頭がパンパンになっていた」という。途方に暮れ、戸惑うをカオリさんの心を、はつ先生は収斂されつくされた言葉で解きほどいてくださった。「進歩、進歩と言われながら、固い固いおっぱい。精神で固めてしまったんだねえ。でも、あのままがんばり過ぎなくて良かったじゃない。できないこともあるって判っただけでも良かったじゃない。あなたは女性としての自分を高めることで精一杯で、先に女性の自立という部分を確立してしまったからお母さんになる準備ができていなかったの。これからは赤ちゃんのペースに合わせて母になって自信がついたらまた女の部分と一緒に成長していったらいいのよ」
そんな言葉が身体に染み込み、カオリさんは、泣きに泣く。そして、「いいのよ、いいのよ、泣いたらいいのよ。それでおっぱいも柔らかくなるから、女の涙は上品なんだから」そう語りかけながら、はつ先生はマッサージを続ける。
いつくもの命の始まりを包み込んできたはつ先生の手は、同時に母乳を生み出す魔法の手でもある。心と同様に固くなった肩から乳房まで、魔法の手でじっくりと揉みほぐし、乳首に溜まっていた不要なものを取り除いていく。やがて母子ともに涙が枯れかけた頃、母乳は出るように。まさに、それは「神業」。地上で生きる多くのものが必要とする天から授けられし「天職」がそこにあった。
最初の試練を越えて、一心に母乳を飲み続ける我が子を、カオリさんは優しく見つめていた。乳首から母乳を吸うためには、ほ乳瓶で飲むよりも実に6倍もの体力を使うという。だから、額に汗を浮かべながら、乳児は母乳を飲む。
「たいていの場合、子どもの泣き声に我慢できないで粉ミルクをあげてしまうものなのよ」と自分の体験を語るのは、けたたましく唐突に現れた僕の母だ。何を勘違いしたのかお菓子とかお弁当を抱えて駆け込むようにやって来て、はつ先生に注意を受けた母は、息子に失望させられた分、孫にかける想いは深いらしく、「次はちゃんと育てるから」と宣言した。「じゃあ、おれは失敗だったのか、だいたい、なんであんたが育てるんだ?」と反論するが、孫に夢中で全然聞いてない。その傍らでは父が「うーん」と唸っている。「何か言えよ」と思うが、趣味で小説を書いている父は、そのとき心の中で、「あんたが芥川賞をとるんで」と、すでに叶わぬものとなった自らの夢を孫に託していたらしい。
カオリさんにより「ソウタ」と名付けられた我が子は、そんな様子をただ見つめている。彼を見守ろうと想う僕は、逆に見守られているような、不思議な気持ちになっていた。
一人、ともに生きていく仲間が増えたことの喜びを、僕が素直に感じていた。きっと教えることより、教わることが多いのだろう。あっという間に「父」という肩書きが取っ払われた後、一人の人間としての僕を、彼はどのように見るのだろうか。
少し落ち着きをなくした僕は、その問いかけから逃れるためにこう考えるようにした。「ともに学びながら成長していこうな。風音の谷で。もうすぐカフェができて、いろんな人が訪れてくるから、楽しみにしておけよ」
生まれた日と同様、よく晴れた春の日に、三人で風音の谷に帰ってきた。ここが「家」だと分かるのか。この日からソウタはよく眠るようになる。
まだ寝返りを打てないソウタを、カオリさんと僕はベットの横に座り込んで見つめた。ソウタは、風に揺れる木々の葉を、窓越しに見つめる。
時間は止まっているかのようだった。さらさらと、木々の間をそよぐ風は、永遠に吹き止むことはないように思えたので。

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